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トランプ政権、移民問題と「社会資本」

 先日、時事ドットコムに「なぜ移民問題はこれほど重要な政治問題となったのか:『極右』台頭の背景」と題するコラムを載せていただきました(会員登録が必要ですが無料です。ご関心の向きはどうぞ。なお、このブログ記事を書いている時点ではアクセスランキング3位となっており、ありがたい次第です)。

 政権発足後、トランプ氏が国内政策や外交政策の領域で巻き起こす新風に世界中の人が翻弄されています。私の知人が「寝て起きたら翌日には何かびっくりすることが起こっている」と呟いていましたが、まさにそのとおり、改革のスピードには目を見張るほどです。そして、彼が最重要課題の一つとして位置付けているのが越境移動者の問題です。英語圏(欧語圏)では、これはマイグラント、マイグレーションの問題として理解されることがほぼ定着しました。一昔前は、欧米では、移民の問題=入国者にいかなる法的地位を与えるかという問題、難民の問題=国際規範に照らして保護が必要な人をどこの国がどのように受け入れるか、という問題、その他の越境移動者の問題(人道的な対応が必要な人か否かを見極める問題)に分かれた議論が行われていました。日本では、これが現在展開されている議論のパターンだと思われます。しかし、欧米社会は日本よりずっと先を進んでおり、現在では、法的地位が難民であるか移民であるか、という問題以前に、とにかく国境を越えてやってくる人たちにいかに対応するべきか、という問題に直面することになりました。これが、マイグレーション(=人の越境移動)が問題だ、という認識が共有される背景です。

 上のような経緯を踏まえると、欧米社会が「先に進んでいる」という事態は決して望ましいものではなく、日本が後追いすべき状態でもありません。しかし、再三繰り返しているように、今の日本は欧米が進んだ道を素直にたどっているようにしか私には思えません。「いやいや、日本は欧米の失敗を踏まえて慎重に進んでいるんです」という方もいます。たしかに、「慎重さが必要だ」という認識そのものは経済界も政府の政策立案に携わる方々も持っているのだとは思います。しかし、実際には、欧米が行ってきた外国人向け政策「以上」のことは何も行っていません。今まで、欧米が行ってきたことの「プラスアルファ」が必要なんです、と私はあらゆるところで言っているのですが、果たして伝わっているのか、疑問です。

 最も大きな問題は、外国人を受け入れることで日本人一人一人の所得があがったり、生活の質の向上がみられるのかどうか、その相関についての情報開示がなされていない、ということです。以前、政府系の研究機関で分析を行う専門家にこのことをお話しした際、「いやそもそも、外国人労働者を受け入れるのは日本の景気が良いからだ。だから、受け入れたら景気が良くなるか否か、という相関を図るのは難しいのだ」というお答えをいただきました。当時は、そんなもんかな、と思って聞いていたのですが、今改めて思うと、この考えはどこかおかしいと思います。たしかに、新規求人数の増加に伴い人手不足の解消として外国人労働力が求められているという実態はあると思います。そして、今のところ、世界経済の不透明さへの懸念はあるものの賃上げも続く傾向にあり、景気の良さが移民受け入れの原動力になっているという見方は正しいと考えられます。しかし、受け入れた結果、さらに日本経済が良くなるのかどうか、また、GDP成長が見られたとして、それが、一般のネイティブ労働者の恩恵につながる形で寄与しているのか、ということについては、驚くほどデータがないのです。これは本来必要なデータで、例えば2024年の国際通貨基金(IMF)でもレポートを作成しています。それにも関わらず、日本政府によるデータ分析が「できない」というのはいかがなものでしょうか。どうも、今の日本には、外国人がやってくることが日本社会にとってプラスになる、というデータだけが客観的な分析であるかのような印象操作がなされているように私には思えます。なぜなのか理由は分からないのですが。同じことを、一昔前のアメリカもヨーロッパ諸国もやっていた。その結果が、今の政治的混乱であり、社会的分断であるということをもう少し踏まえた仕事を、特に政府にはしていただきたいものです。

 と、一人の国民としての希望をここで示してみたのは良いのですが、さてそれでは日本は何にどう備えればいいの?となると私も今のところ分からない、というのが実態です。無責任だ!と怒らないでください(たしかに仕事が遅く、叱咤を受けなければならないところはあります。すみません、もう少し頑張って仕事します!!)。ただ、少なくとも私が訴えたいことは、多くの業界で行っているようなリスク対応についての協議を、ぜひ外国人受け入れの分野でも行ってほしい、ということです。そしてそのような会議体へはぜひ喜んで参加させていただきたいと思っています。対象は労働者に限らず、難民、もしくは難民認定を希望する人も含むべきです。現在、UNHCRやIOM(国際移住機構)などの駐日事務所では、それぞれの本部が行っていることとかなりかけ離れた仕事をしているように見えます。もちろん、中で働いている方とお話をすると、皆さん悪気がある方はいらっしゃらず、それぞれ恵まれない人のために一生懸命働いている方ばかりです。なので、個人的にどなたかを批判する、という意図は全くありません。ですが、全体としては、実際に大規模な避難民の受け入れに四苦八苦している国(例えばヨーロッパ)、自国も貧しいのに避難民の対応に迫られ戸惑っている国(例えば発展途上国)に比べ、とりあえずは問題に直面していない国である日本では、人道的な避難民への保護が必要だ、という観点からの啓発活動に過度に偏っているような印象を受けます。それでも、昨今では、世界で起こっている難民や避難民問題を前にUNHCRやIOMが新たにどのような課題を抱えるようになったか、ということを踏まえた活動ができる職員の方が増えてきたようにも思い、それは望ましい傾向にあると思っています。ですが、まだプロパガンダ的な啓蒙活動に終始するような方々もいそうで心配です。国際機関の職員の方々には、ぜひ、現実的な解決策を目指して頑張っていただきたいと思っています。

 ともあれ、言うは易し、行うは難し、ということで最近感じたことをお話しして締めたいと思います。時事ドットコムにも紹介したロバート・パットナムという政治学者の議論、すでに有名なもので、彼が2010年に著した"Bowling Alone(『孤独なボウリング』"という本、最近日本語訳も出たようなんですが、ここで彼が示している「社会資本(social capital)もしくは社会関係資本」、という概念に照らして最近考えたことがあります。パットナムの主張は、(とーっても荒く要約してしまうと!)外国人とネイティブの間で共同体の同胞意識が十分に醸成された環境ではじめて当該社会の発展が見られる、ということなんだろうと思います。逆に言えば、互いの交流が十分でない社会は生産性が低く、発展にもネガティブな影響があるということ。これを踏まえて、エピソードをお話しします。つい最近、学校でのPTAの役員を誰が引き受けるか、ということで難題が発生しました。御多分に洩れず、と言っては失礼かもしれませんが、できればみな、引き受けたくない仕事です。なんとかして断れないかという思いで会議に臨むわけです。そこで、外国人のご両親が何組かいらして、この方々は最初から役員の候補からは外して議論しましょう、ということになりました。一部の参加者からは、「え、でも日本語でコミュニケーションが取れているし...」と。その心は、外国人だからって負担しないのはずるいですよ、、ということ(おそらく)。他方、役職経験者からは、「いやあ、でも、共同で作業をするとき、日常会話以上のコミュニケーションが必要になることもあるんですよ、」と。その心は、いざというとき、いちいち教えながら仕事をしなきゃならないとなると却って時間がかかって大変なんですよ、ということ(おそらく)。それで、結局いわゆる日本人の親御さんだけでくじ引きをする、という結末になりました。

 このエピソードからいろいろと思いました。まず、最初から外国人の親御さんを外す、という行為が差別にあたるのかどうか、ということ。そう思う方もいるでしょう。でも、最初からやりたくないと当人が思っていたとしたら、少なくともご本人は差別だとは思わないでしょう。次に、ネイティブはこの状況をどう思うか。外国人は日本語が分からないからと言ってフリーライダーになっているじゃないか、と不満を持つ人もいるでしょう。最後に、彼らが入ると余計面倒で時間がかかるからお声がけしないでおきましょう、という配慮?をどう評価するか、という問題。よそから高みの見物をしている人(特に学者!)は、外国人が社会統合する機会を奪った!と憤慨するかもしれない。しかし当事者は、私たちだって日々忙しい中時間を削ってPTAの仕事をしているんです。そんなこと言うならあなたがやってみてくださいよ!となるはず(心の声)。しかし、結果として、ここで異文化を「ブリッジ(パットナム)」する努力が失われた、ということは言えるかもしれない。そして、それは大局的に見て、社会発展の阻害要因とみなされうると言うことです。

 誤解のないように付け加えておくと、ここで登場したみなさんは日本人も外国人も全員とても良い心根の方です。決して他人に仕事を押し付けようとしたり、また不平不満を言うような人たちでは全くなく、人格者の方ばかり。私はただ、社会資本の問題は意外と日常で起こりやすいと言うことをお伝えしたかったということです。

 当面の結論としては、社会発展の阻害要因を確認しうる状況が生まれたとして、それを回避するために政府が果たす役割が大きい、と言うことです。要は、「ブリッジ」の役割を一般人に(無償で)務めさせるの?と言うことなんです。移民であれ難民であれそのほかの法的カテゴリーの人であれ、外国人の受け入れは政府が決め、その後の負担は一般の民間人が引き受けるという構造が全く是正されていない。そして、実際に負担を請け負っていない人たちが、いかにも立派な言葉で「難民への人道支援の必要性」をうったえる。ときに、国際社会の他の国々は日本よりも寛容です、と「嘘」をついて(日本のケースときちんと比べもせず、単発のケースを取り上げて諸外国での受け入れ対応が良い、とするような反論は相手になりません。そもそも、他国との比較はできない、というのが私の見解です)。この不条理にメスを入れる、と言うアプローチに政府の方々が一刻も早く気づいてほしいと思います。あくまで、中道政党がこの問題に対処すべきです。放置すれば、ポピュリスト政党を利することになる。その危険に一喜一憂している欧米社会の現状をいかに日本が反面教師と捉えることができるかが、今、問われているのだろうと思います。



 

 
 
 

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